商品番号: SKU:22694
青い衣装を身にまとった、棟方志功の中でも色彩が珍しい作品です。
棟方 志功(1903年(明治36年) – 1975年(昭和50年) 「わだばゴッホになる!」と21歳で上京し、油絵から入って版画に至る人生を送り、「板の生命を彫り起こす」という想いから、自らの版画を板画と称し、独自の世界を築き上げ、その自由奔放に彫られた棟方志功の作品は、あらゆる人々の心に自然と人間の生命の逞しさ、美しさを強烈に印象づけ、現在も多くの人々に親しまれ愛され続けています。
明治36年 9月5日 青森市大町に生まれる。
大正9年 17歳 青森地方裁判所弁護士控所の給仕となる。
大正13年 21歳 絵の修行のために上京
昭和3年 25歳 油絵「雑園」で帝展に初入選。
昭和5年 27歳 赤城チヤと結婚
昭和11年 33歳 国画会展出品の「大和し美し」により柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司らに見出され、指導を受ける。
昭和14年 36歳 「釈迦十大弟子」を制作。
昭和20年 42歳 富山県福光町に疎開。
昭和26年 48歳 富山県福光町から、東京都杉並区荻窪に居を移す。
昭和31年 53歳 イタリアのベニス・ビエンナーレ国際美術展に「柳緑花紅頌」他11点を出品し国際版画大賞を受ける。
昭和40年 62歳 紺授褒賞を受ける。
昭和45年 67歳 文化勲章を受章、文化功労者に指定される。
昭和50年 72歳 死去。
「板画」について
棟方志功は「板画」という字を使います。初期には「版画」という字を使っていましたが、「板画」というものは板が持って生まれた性質を大事に扱い、木の魂というものを直に生み出さなければダメだと考え、板の声を聞くということで、「板」という字を使うことにしました。 また、江戸後期の板画家はこの「板」の字を使い、板元の場合もこの「板」であり、棟方志功も木板画が専門のため、「板画」という表現を用いています。
裏彩色
日本古来の彩色板画は浮世絵のように多色刷ですが、棟方志功は白黒板画を鮮やかにするために彩色を施しました。昭和十二年以後の作品は裏彩色によるものが沢山あります。
「柵」について
棟方板画は「大首の柵」のように、初期何年かの作品以外は殆ど「○○の柵」と名付けられています。 棟方志功の説明によると、「柵」とは四国の巡礼が寺々に納める回礼のことで、願いをかけてお札を納めて歩く心を表すものです。 一柵ずつ作品に願いをかけて、生涯の道標を置いて行く、無限に続く想いをこの文字にこめています。 「柵」の文字を使い始めたのは昭和16年38歳の頃、柳宗悦氏等に接して他力本願的な芸術観に目覚めた時期であり、この芸術観に何らかの関連があるように思われます。連作全体の総称にも、個々の作品にも使っていますが、板画の題名に限っており、倭画、油絵など肉筆画には使っていません。
青い衣装を身にまとった、棟方志功の中でも色彩が珍しい作品です。
棟方 志功(1903年(明治36年) – 1975年(昭和50年) 「わだばゴッホになる!」と21歳で上京し、油絵から入って版画に至る人生を送り、「板の生命を彫り起こす」という想いから、自らの版画を板画と称し、独自の世界を築き上げ、その自由奔放に彫られた棟方志功の作品は、あらゆる人々の心に自然と人間の生命の逞しさ、美しさを強烈に印象づけ、現在も多くの人々に親しまれ愛され続けています。
明治36年 9月5日 青森市大町に生まれる。
大正9年 17歳 青森地方裁判所弁護士控所の給仕となる。
大正13年 21歳 絵の修行のために上京
昭和3年 25歳 油絵「雑園」で帝展に初入選。
昭和5年 27歳 赤城チヤと結婚
昭和11年 33歳 国画会展出品の「大和し美し」により柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司らに見出され、指導を受ける。
昭和14年 36歳 「釈迦十大弟子」を制作。
昭和20年 42歳 富山県福光町に疎開。
昭和26年 48歳 富山県福光町から、東京都杉並区荻窪に居を移す。
昭和31年 53歳 イタリアのベニス・ビエンナーレ国際美術展に「柳緑花紅頌」他11点を出品し国際版画大賞を受ける。
昭和40年 62歳 紺授褒賞を受ける。
昭和45年 67歳 文化勲章を受章、文化功労者に指定される。
昭和50年 72歳 死去。
「板画」について
棟方志功は「板画」という字を使います。初期には「版画」という字を使っていましたが、「板画」というものは板が持って生まれた性質を大事に扱い、木の魂というものを直に生み出さなければダメだと考え、板の声を聞くということで、「板」という字を使うことにしました。 また、江戸後期の板画家はこの「板」の字を使い、板元の場合もこの「板」であり、棟方志功も木板画が専門のため、「板画」という表現を用いています。
裏彩色
日本古来の彩色板画は浮世絵のように多色刷ですが、棟方志功は白黒板画を鮮やかにするために彩色を施しました。昭和十二年以後の作品は裏彩色によるものが沢山あります。
「柵」について
棟方板画は「大首の柵」のように、初期何年かの作品以外は殆ど「○○の柵」と名付けられています。 棟方志功の説明によると、「柵」とは四国の巡礼が寺々に納める回礼のことで、願いをかけてお札を納めて歩く心を表すものです。 一柵ずつ作品に願いをかけて、生涯の道標を置いて行く、無限に続く想いをこの文字にこめています。 「柵」の文字を使い始めたのは昭和16年38歳の頃、柳宗悦氏等に接して他力本願的な芸術観に目覚めた時期であり、この芸術観に何らかの関連があるように思われます。連作全体の総称にも、個々の作品にも使っていますが、板画の題名に限っており、倭画、油絵など肉筆画には使っていません。