商品番号: SKU:25321
高さ 4.7cm
径 6.3cm
古陶磁研究の第一人者として名を馳せ、近現代工芸家達と親交を深めながら自身も陶芸家として活躍。 卓越したセンスと技量、弛まぬ勉学によって身に付けた膨大な知識を武器に様々なジャンルの作品を制作し活躍した小山富士夫の作品。
昭和44年9月、小山は、台北の故宮博物院で「日本にある中国陶磁」について講演するために台湾行くことになり、その途中に沖縄首里に立ちよった。ここ「やむちん」の里に釉薬の掛かった上焼(ジョーヤチ)のほかに「荒焼」(アラヤチ)といわれる南蛮風焼締があった。戦前までは荒焼の窯元が8割を占めていたが、戦後の民芸運動とともに施釉された多彩な上焼が、土産ものとして人気になって逆転したという。小山は無釉焼締の荒焼に惚れ込んで読谷の新垣栄用窯で作陶する。 南蛮風の荒焼には新垣所有の首里石嶺の粘土が使われていた。窯の焼く場所によるが、“半練(はんねら)”風に真っ赤に発色した柔らかな焼締が焼けたのもあり、小山は満足であった。 その後、小山冨士夫に刺激され、沖縄の荒焼を追い続けた中川伊作(1899~2000)は1972年から沖縄で南蛮焼締を作陶、1977年から知花城近くに登窯を築き、赤焼けの荒焼を焼くようになった。 小山が沖縄で荒焼を楽しんだその翌年のことである。
高さ 4.7cm
径 6.3cm
古陶磁研究の第一人者として名を馳せ、近現代工芸家達と親交を深めながら自身も陶芸家として活躍。 卓越したセンスと技量、弛まぬ勉学によって身に付けた膨大な知識を武器に様々なジャンルの作品を制作し活躍した小山富士夫の作品。
昭和44年9月、小山は、台北の故宮博物院で「日本にある中国陶磁」について講演するために台湾行くことになり、その途中に沖縄首里に立ちよった。ここ「やむちん」の里に釉薬の掛かった上焼(ジョーヤチ)のほかに「荒焼」(アラヤチ)といわれる南蛮風焼締があった。戦前までは荒焼の窯元が8割を占めていたが、戦後の民芸運動とともに施釉された多彩な上焼が、土産ものとして人気になって逆転したという。小山は無釉焼締の荒焼に惚れ込んで読谷の新垣栄用窯で作陶する。 南蛮風の荒焼には新垣所有の首里石嶺の粘土が使われていた。窯の焼く場所によるが、“半練(はんねら)”風に真っ赤に発色した柔らかな焼締が焼けたのもあり、小山は満足であった。 その後、小山冨士夫に刺激され、沖縄の荒焼を追い続けた中川伊作(1899~2000)は1972年から沖縄で南蛮焼締を作陶、1977年から知花城近くに登窯を築き、赤焼けの荒焼を焼くようになった。 小山が沖縄で荒焼を楽しんだその翌年のことである。